記憶障害(Memory Disorder)とは、脳の損傷や病気などによって、新しいことを覚えたり、以前のことを思い出したりする力が損なわれた状態です。記憶障害が中心の状態を健忘(amnesia)といい、試験では「いつの」「どの種類の」記憶が「脳のどこの損傷で」失われるかがよく問われます。
簡単な説明
記憶は、スマートフォンの動画に似ています。撮る(記銘)、保存する(保持)、再生する(想起)のどこかがうまくいかないと、「覚えていない」ことになります。
頭を強く打った人が「事故の前の数日間を思い出せない」と言うのは、保存ずみの動画が見られなくなった状態です。一方、事故のあとに会った人をすぐ忘れてしまうのは、録画ボタンが効かなくなった状態です。同じ「忘れる」でも意味が違うのです。
また、新しい出来事を覚えられない人でも、「体で覚える」技能は練習で上達することがあります。記憶はいくつもの仕組みに分かれているのです。
由来
| 年 | 主なできごと |
|---|---|
| 1887〜1891年 | ロシアの精神科医Sergei Korsakoffが、重い記憶障害と作話を示す患者を報告(のちのコルサコフ症候群) |
| 1953年 | てんかん治療のため、27歳の患者H.M.が両側の内側側頭葉切除術を受け、重い健忘が生じる |
| 1957年 | 脳外科医William B. Scovilleと心理学者Brenda Milnerが、H.M.らの記憶障害を報告 |
| 1980年 | Neal J. CohenとLarry R. Squireが、健忘患者の鏡映読みの学習から宣言的/手続き的知識の区別を提案 |
| 1990年 | John R. HodgesとCharles P. Warlowが一過性健忘153例を分析し、一過性全健忘の厳密な基準にもとづく分類を提案 |
| 2008年 | H.M.(Henry G. Molaison)が82歳で死去 |
具体的な説明
前向健忘と逆向健忘
健忘は、発症した時点を基準に2つに分けます。
| 比較項目 | 前向健忘(anterograde amnesia) | 逆向健忘(retrograde amnesia) |
|---|---|---|
| 失われるもの | 発症後の新しい情報を覚えること | 発症前に覚えていたことを思い出すこと |
| 日常の姿 | 同じ質問を何度もくり返す、会った人をすぐ忘れる | 発症前の出来事や時期の記憶が抜け落ちる |
| 特徴 | 記銘や固定化の障害と考えられる | 発症に近い時期ほど失われやすく、古い記憶ほど残りやすい(時間的勾配、Ribotの法則) |
多くの健忘では両方が見られます。典型的な健忘では、数字をその場で復唱する短期記憶や知能は保たれやすい点も重要です。
失われる記憶と残る記憶(乖離)
健忘で強く障害されるのは、言葉で説明できる宣言的記憶、とくに「いつ・どこで」を伴うエピソード記憶です。一方、技能や習慣にあたる手続き記憶やプライミングなどの非宣言的記憶は保たれやすく、「上達しているのに、練習した覚えがない」という乖離が起こります。これが、記憶が複数のシステムからなるという考え(複数記憶システム)の強い根拠になりました。
関係する脳の部位:内側側頭葉と間脳
健忘を起こす代表的な部位は2つです。1つは海馬とその周辺皮質(嗅内皮質・嗅周皮質・海馬傍皮質)からなる内側側頭葉、もう1つは乳頭体や視床などの間脳です。これらは新しい記憶をつくり一定期間支え、古い記憶はやがて大脳新皮質に支えられると考えられています(固定化)。時間的勾配はこれで説明されます。
試験で区別したい健忘のタイプ
| タイプ | 主な原因・部位 | 見分けるポイント |
|---|---|---|
| 内側側頭葉性健忘(H.M.など) | 手術、脳炎、低酸素などによる海馬とその周辺の損傷 | 重い前向健忘。知能・短期記憶・技能学習は保たれる |
| コルサコフ症候群 | ビタミンB1(チアミン)欠乏。多くは長期の多量飲酒にともなう。間脳(乳頭体・乳頭視床路・視床前核の回路)の損傷 | ほかの認知機能に比べ記憶が不釣り合いに障害される。重い逆向健忘。作話、病識の乏しさ |
| 一過性全健忘(TGA) | 原因は確定していない | 突然の前向健忘。同じ質問のくり返し。意識は保たれ、自分が誰かはわかる。ほかの神経症状はない。24時間以内に回復 |
| 解離性健忘 | 強いストレスや心的外傷などの心理的要因 | 自分に関する重要な情報を思い出せない。多くは逆向性で、主に自伝的記憶が障害される |
コルサコフ症候群は、急性のウェルニッケ脳症(古典的三徴は眼球運動の異常・歩行失調・意識の混乱。そろわないことも多い)に続くことがあります。Michael D. Kopelman(1995)は、前向健忘は間脳の回路の障害で説明できる一方、重い逆向健忘には前頭葉の機能障害など別の要因が必要だと論じました。
作話(confabulation)
作話とは、記憶の欠けた部分を、事実でない内容で埋めて話してしまうことです。本人はだますつもりがなく、うそとは違います。Kopelman(1987)は、自分から話し出す自発作話(健忘に前頭葉の機能障害が重なって生じる可能性)と、質問されて生じる誘発作話(あいまいな記憶への正常な反応に近く、健康な人にも見られる)を区別しました。
試験で押さえる論点(ひっかけ対策)
| 論点 | 正しい理解 | よくあるひっかけ |
|---|---|---|
| 前向・逆向 | 前向=発症後、逆向=発症前 | 「前」の字につられて逆にする |
| Ribotの法則 | 古い記憶ほど残る | 「古い記憶から失われる」 |
| H.M. | 知能・短期記憶・手続き記憶は保たれる | 「短期記憶も障害」「切除は海馬だけ」 |
| コルサコフ | B1欠乏、間脳、作話 | B12とする。ウェルニッケ失語と混同 |
実験や観察の方法と結論
H.M.の研究は記憶研究を変えました。H.M.は手術後、日々の出来事をすぐ忘れるようになりましたが、知能や知覚に目立った低下はなく、6〜7桁の数字の復唱もできました。3桁の数字を頭の中でくり返せば15分ほど保てましたが、話題がそれるとすべて忘れました。ここから、記憶は知能とは分けられる脳の機能で、短期記憶と長期記憶は別であり、新しい長期記憶をつくるには内側側頭葉が重要だと示されました。
Milner(1962)の鏡映描写課題では、鏡に映った手と星形だけを見ながら輪郭をなぞります。H.M.は10試行で技能を身につけ3日間保持しましたが、課題をしたこと自体は覚えていませんでした。内側側頭葉に頼らない別の記憶がある最初の手がかりです。
逆向健忘は、Scoville & Milner(1957)では手術前の約3年間とされましたが、その後より長く見積もられ、範囲には議論があります。
例文
「祖父は脳炎のあと、新しく会った人の名前を覚えられなくなりましたが、昔の仕事の話はよく覚えています。前向健忘が中心の記憶障害といえます。」
「長年の多量飲酒がある患者が、昨日のことを尋ねられて事実と違う話を自信たっぷりに語りました。コルサコフ症候群にみられる作話が疑われます。」
疑問
Q: 記憶障害と認知症は同じものですか?
A: 同じではありません。記憶障害は症状の名前で、認知症の主な症状の1つです。認知症では記憶以外の認知機能も低下し、生活に支障が出ます。H.M.のような健忘では、記憶以外の知的な力は保たれていました。
Q: 作話をする人は、うそをついているのですか?
A: いいえ。作話にはだます意図がなく、本人は事実だと思って話しています。責めずに症状として理解することが大切です。
Q: 一過性全健忘になると、自分が誰かもわからなくなるのですか?
A: いいえ。意識ははっきりしていて、自分が誰かもわかっています。新しいことが覚えられないために、「今日は何日?」「なぜここにいるの?」と同じ質問をくり返すのが典型です。
理解度を確認する問題
問題1. 逆向健忘に関する説明として、最も適切なものはどれか。
- A. 発症後の新しい出来事を覚えられない状態をいう。
- B. 古い記憶ほど失われやすく、発症直前の記憶ほど残りやすい。
- C. 発症に近い時期の記憶ほど失われやすく、古い記憶は保たれやすい。
- D. 数字をその場で復唱する短期記憶も必ず障害される。
正解:C 逆向健忘の時間的勾配(Ribotの法則)です。Aは前向健忘の説明で、「前」「逆」の取り違えをねらったひっかけです。Bは時間的勾配を逆にしています。Dは誤りで、典型的な健忘では短期記憶は保たれやすく、H.M.も数字の復唱ができました。
問題2. 患者H.M.に関する説明として、最も適切なものはどれか。
- A. 手術後、知能が大きく低下した。
- B. 鏡映描写の技能は上達して保持されたが、課題をしたこと自体は覚えていなかった。
- C. 数字を数桁その場で復唱することもできなくなった。
- D. 切除されたのは両側の海馬だけだった。
正解:B 手続き記憶は保たれ、エピソード記憶は障害されるという乖離の代表例です。Aは誤りで、知能に目立った低下はありませんでした。Cは誤りで、6〜7桁の数唱は保たれていました。Dも誤りで、切除範囲には扁桃体や海馬傍回も含まれていました。
問題3. 健忘を示す状態とその特徴の組み合わせとして、最も適切なものはどれか。
- A. コルサコフ症候群 ― ビタミンB12の欠乏が主な原因である。
- B. 一過性全健忘 ― 自分が誰かもわからなくなり、数週間続く。
- C. コルサコフ症候群 ― 間脳の損傷が関わり、作話や病識の乏しさを伴うことが多い。
- D. 作話 ― 患者が意図的に相手をだまそうとしてつくる話である。
正解:C コルサコフ症候群は間脳性健忘の代表です。Aは数字だけを変えたひっかけで、原因はビタミンB1(チアミン)の欠乏です。Bは誤りで、一過性全健忘では自分が誰かはわかっており、24時間以内に回復します。Dは誤りで、作話にだます意図はありません。
関連キーワード
- 前向健忘(Anterograde Amnesia)/逆向健忘(Retrograde Amnesia)
- 海馬(Hippocampus)
- コルサコフ症候群(Korsakoff Syndrome)/ウェルニッケ脳症
- 作話(Confabulation)
- 一過性全健忘(Transient Global Amnesia)
- 解離性健忘(Dissociative Amnesia)
関連論文
まずこの1本
Scoville, W. B., & Milner, B.(1957)Loss of recent memory after bilateral hippocampal lesions. Journal of Neurology, Neurosurgery, and Psychiatry, 20(1), 11–21.
H.M.らの記憶障害を報告した論文です。題名は「海馬」ですが、H.M.の切除範囲には扁桃体や海馬傍回も含まれていました。試験対策としては、重い前向健忘、知能や短期記憶は保たれること、内側側頭葉が新しい記憶の形成に重要という結論を押さえましょう。
https://doi.org/10.1136/jnnp.20.1.11
その他の参考文献
Squire, L. R.(2009)“The legacy of patient H.M. for neuroscience.” Neuron, 61(1), 6–9.
概要 H.M.の研究が示したこと(記憶と他の認知機能の分離、短期記憶と長期記憶の区別、複数記憶システム)を短くまとめた論文です。
https://doi.org/10.1016/j.neuron.2008.12.023
ほそめがねのひとこと
前向健忘と逆向健忘を初めて学んだとき、どちらがどちらか迷ったことはありましたか?どうやって整理しましたか?
覚え方
①前向・逆向:「前を向いたら新しいことが入らない、逆に振り返ったら昔が消えている」。発症時点から未来が覚えられないのが前向、過去が思い出せないのが逆向です。
②コルサコフ:「お酒でB1が足りず、話をつくる」。ビタミンB1欠乏、間脳(乳頭体・視床)、作話をセットで覚えましょう。
③一過性全健忘:「1日で戻る、名前はわかる」。24時間以内に回復し、自分が誰かはわかっているのが特徴です。

コメント