こんにちは。今回は、ニュースや日常会話でも耳にすることがある「モラトリアム」という言葉について、その心理学的な意味を深く掘り下げていきましょう。この言葉は、単なる「何もしない時間」を指すわけではありません。
本資料では、モラトリアムの基本的な概念や理論的背景をご説明しながら、同時に**「学生」と「社会人」がそれぞれの立場でどのような行動を取ると良いのか**という、より実践的な側面に焦点を当てています。理論も大切ですが、このシートでは「あなたが今、実際に何ができるか」という、すぐに活かせるアドバイスを大切にしています。理論の詳細についてはさらに専門的な書籍を手に取りながら、ここでは一緒に「次のステップ」を考えていきましょう。
1. 「モラトリアム」の基本的な意味
まず、言葉の基本的な定義から見ていきましょう。
1.1 言葉の由来と本来の意味
「モラトリアム(moratorium)」の語源は、英語の「moratory」に由来し、本来は「一時停止」や「猶予期間」を意味する言葉です。もともとは金融業界で使われ始め、支払いを一時的に猶予することなどを指していました。
モラトリアムについては用語としてまとめたページもあります。
1.2 様々な分野で使われるモラトリアム
心理学以外でも使われることで、言葉の持つ「猶予」という中核的な意味がより明確になります。
| 分野 | 意味と具体例 |
| 政治・経済・金融分野 | 「支払いの猶予」を指します。災害時や金融危機時に、国が債務の支払いを一時的に猶予する措置など。 |
| 心理学分野 | 「大人になるまでの猶予期間」を指します。青年が社会的な責任を負うことを猶予される、自分探しのための準備期間。 |
【学習の架け橋】 それでは、この概念を心理学の世界で確立させたエリクソンの理論について、詳しく見ていきましょう。
2. 発達心理学におけるモラトリアム:エリクソンの定義
心理学用語としての「モラトリアム」は、発達心理学者のエリク・H・エリクソンによって提唱されました。彼の定義は、単なる停滞ではなく、成長にとって非常に重要な意味を持ちます。
エリクソンが提唱した「モラトリアム」の核心的な意味は、以下の3点に集約されます。
- 猶予期間としての役割 :子どもと大人の境界にいる青年期に、社会的な責任や義務を一時的に免除される期間であること。
- アイデンティティ確立の過程 :単なる停滞ではなく、自分は何者であるかという「アイデンティティ」(自己同一性)を確立するための、積極的で必要な模索期間であること。
- 発達プロセスの一部 :個人の成長にとってポジティブで重要な役割を持つ、発達段階の一部であること。
【学習の架け橋】 エリクソンが提唱したこの概念は、現代社会でどのように解釈され、使われているのでしょうか。次は、より身近な「モラトリアム人間」という言葉に焦点を当てます。
3. 現代社会におけるモラトリアム人間
エリクソンのポジティブな意味合いとは少し異なり、現代ではネガティブなニュアンスで使われることもあります。
なぜこのような変化が起きたのでしょうか。エリクソンが活躍していた20世紀半ばの社会では、教育制度や人生設計が比較的明確であり、高校卒業後は大学進学か就職かといった選択肢が限定的でした。そのため、モラトリアム期間は自然と終わりを迎えることが多かったのです。しかし、現代社会は急速に変化し、選択肢が増え、人生設計が多様化しました。同時に、親の支援や経済状況によって、決断を先延ばしにすることが可能になった側面もあります。つまり、本来は「時間とともに終わる準備期間」であるべきモラトリアムが、終わらないまま続く人が現れるようになったということです。このような背景から、決断を避け続ける人を指す「モラトリアム人間」という概念が生まれ、広がっていったのです。
3.1 「モラトリアム人間」とは?
「モラトリアム人間」とは、社会人として自立すべき時期になっても、社会への所属を避け、決断を先延ばしにする人を指す言葉です。この言葉は、1978年に精神科医の小此木啓吾氏が著書『モラトリアム人間の時代』で提唱し、広く知られるようになりました。
3.2 モラトリアム人間の主な特徴
モラトリアム人間に共通して見られる特徴には、以下のようなものが挙げられます。
- 自己理解の不足 :「自分のやりたいことが分からない」と感じ、進路や職業選択といった具体的な決断ができない状態。
- 決断力の欠如 :多くの選択肢を前にして一つに決められなかったり、責任を負うことを恐れて決断そのものを避けたりする傾向。
- 理想と現実のギャップ :理想と現実のギャップに悩み、安易な転職を繰り返すなど、定職に就けない状態。
【学習の架け橋】 一口にモラトリアムと言っても、その状態は様々です。臨床心理学者の下山氏が分類した5つの要素を見ることで、その内実をより深く理解できます。
4. モラトリアムを構成する5つの要素
臨床心理学者の下山晴彦氏は、モラトリアムの状態を5つの構成要素に分類しました¹。これにより、モラトリアムの多様な側面を理解することができます。
- 回避(Avoidance) :将来設計や社会的責任と向き合うこと自体を避けてしまう状態。現状維持を望み、ニートや引きこもりに繋がる可能性もあります。
- 拡散(Diffusion) :将来について考えてはいるものの、選択肢が多すぎて自分が進むべき道を一つに決められない状態。多くの人がこの状態を経験します。
- 安易(Easygoing) :自分の将来を真剣に考えず、周りの意見やその場の雰囲気に流されて安易に行動してしまう状態。受動的な態度が特徴です。
- 延期(Postponement) :社会的責任を負うまでの期間を、自分の意思で意識的に先延ばしにしている状態。「今は学ぶ・試す期間」と割り切り、いずれは社会に出ることを自覚しています。
- 模索(Exploration) :自分の適性や将来の方向性を積極的に探し、社会的責任を果たそうと試行錯誤している最もポジティブな状態。エリクソンの定義に近いものです。
【学習の架け橋】 モラトリアムと混同されやすい心理状態も存在します。次に、それらの言葉との違いを明確にしておきましょう。
5. 似ているようで違う?関連用語との比較
モラトリアムの概念をより明確に理解するために、関連する用語との違いを整理します。
| 用語 | 意味 | モラトリアムとの関係・違い |
| アイデンティティ拡散症候群 | 自分探しの中で、一時的に自分が何者か分からなくなり、価値観や役割が不明確になってしまう状態。 | 多くの人がモラトリアム期間中に経験する心理状態であり、モラトリアムの一部と見なせます。 |
| ピーターパン症候群 | 成人しても「大人になりたくない」という意識が強く、無責任で他者への依存性が高い、自己中心的な行動をとってしまう状態。 | モラトリアムが「自己の模索」という成長の一環であるのに対し、ピーターパン症候群は「成長の拒否」であり、社会性の欠如が特徴です。 |
【学習の架け橋】 では、モラトリアムは単に乗り越えるべき「問題」なのでしょうか。最後に、この期間との向き合い方について考えてみましょう。
6. モラトリアムとの向き合い方
モラトリアム期間をどう過ごすかは、その後の人生に大きな影響を与えます。
心理学的な研究によれば、この時期にどのような選択をし、どのような経験を積み重ねるかによって、以下の二つの道に分かれる傾向が見られます。一つは、下山氏が分類した「模索(Exploration)」というポジティブな道です。この場合、自分の特性を理解し、試行錯誤を通じてアイデンティティを形成していきます。このルートを歩んだ人は、やがて自分の人生に対する確かな判断基準を持ち、社会への適応や職業選択においても満足度が高い傾向にあります。
一方、「回避」や「安易」といった受動的な対応を続けた場合、モラトリアムが長期化し、いわゆる「モラトリアム人間」として社会的な自立が遅れるリスクが高まります。このような状況では、年齢とともにアイデンティティの確立がより困難になり、職業選択の幅が狭まり、人間関係や自己肯定感の課題へと発展することもあります。つまり、モラトリアム期間は「自分は誰なのか」という問いに真摯に向き合うための貴重な時間であり、その時間をいかに活用するかが、その後の人生の充実度を大きく左右するということなのです。
6.1 モラトリアムは「悪いこと」ではない
まず理解すべきは、モラトリアムは自己を確立するために多くの人が経験する自然で必要な準備期間であるということです。決して悪いことではありません。問題となるのは、その状態が不必要に長引き、社会的な自立を妨げてしまう場合です。
6.2 抜け出すための具体的なアクション
長引くモラトリアムから一歩を踏み出すためには、意識的な行動が助けになります。
- 自分の考えを文章化する(可視化) :日記やメモに思考を書き出すことで、考えが「可視化」されます。これにより、自分を客観的に認識する力(メタ認知)が働き、漠然とした不安や考えが整理され、自己分析が深まります。
- 他者と交流する機会を設ける :サークル活動やアルバイト、ボランティアなどを通じて、多様な価値観を持つ人々と関わってみましょう。他者との交流は視野を広げ、自分の独自性や社会との繋がりを実感するきっかけになります。
- 期限を決める :「○月までは自分探しの期間にする」「半年後には具体的な行動を始める」など、猶予期間にゴールを設定しましょう。期限を設けることで、時間を有意義に使い、だらだらと続く状態から行動へと切り替えるきっかけになります。
- 読書などで知識を増やす :様々なジャンルの本を読むことは、多様な人生観や思考に触れる絶好の機会です。知識を増やすことで将来の選択肢が広がり、自分自身の価値観を形成する上でのヒントが見つかるかもしれません。
7. 【学生向け】モラトリアムとの向き合い方
学生時代は、モラトリアムが最も自然で正当な時期です。ただし、この時期を充実したものにするために、いくつかの指針があります。
学生の立場の特性
学生はまだ社会的責任が相対的に少なく、自分探しのための時間と環境が保障されています。これは大きなメリットです。エリクソンが説く「模索」の段階にいるあなたたちにとって、この時間は自己実現への投資となります。
学生向けの具体的な対策
- 多角的なインターンシップや実習を試す :様々な業界・職種のインターンシップに参加してみましょう。実際の仕事を体験することで、自分の適性や興味が明確になります。複数の経験が、判断基準を作る助けになります。
- 学問の幅を広げる :専門科目だけでなく、関心のある分野の講義や演習に参加してください。一見無関係に思える学びが、将来の選択肢を大きく広げることがあります。
- キャリアカウンセリングを活用する :大学のキャリアセンターやカウンセリング機関を利用してみましょう。プロの視点から、あなたの特性や可能性についての客観的な意見をもらえます。
- 同年代との深い対話を重ねる :友人だけでなく、先輩や後輩、異なるバックグラウンドを持つ学生との交流を大切にしましょう。他者の人生観を知ることは、自分の価値観を形成する重要な材料になります。
- 学年に応じた段階的な決定を心がける :1・2年生は「探索」に重点を、3年生は「焦点化」に、4年生は「実行」に向けて段階的に進めることが理想的です。急ぐ必要はありませんが、時間軸を意識することが大切です。
8. 【社会人向け】モラトリアムの危機と対処法
社会人になると、モラトリアムの状態は「キャリア迷走」や「適応困難」につながりやすくなります。ここでは、社会人が陥りやすいモラトリアムのパターンと対処法を紹介します。
社会人が直面するモラトリアムの特性
社会人には、給与・業績・責任といった即座の責務が発生します。学生時代のような「じっくり考える時間」の確保が難しく、モラトリアムの状態が続くと、以下のようなリスクが生じます:キャリアの足踏み、人間関係のストレス、アイデンティティの喪失感、組織への不適応などです。
社会人向けの具体的な対策
- 現職での「試行錯誤」を意識的に行う :「この仕事は本当に自分に合っているのか」という問いを棚上げするのではなく、現在の職務の中で新しい視点を取り入れたり、異なるプロジェクトに参画したりしてみましょう。現職での可能性を十分に探索してから、転職を判断することが重要です。
- 定期的なキャリア振り返りの習慣をつける :3ヶ月から半年ごとに、「自分は何がしたいのか」「現職で学べていることは何か」を書き出してみてください。振り返りを通じて、モラトリアムから「意識的な選択」へと転換できます。
- メンターや専門家に相談する :組織内の信頼できる上司や、キャリアコーチ、臨床心理士などの専門家に自分の迷いや考えを相談しましょう。客観的な視点が、判断を助けます。
- スキルアップや資格取得に目標を設定する :漠然とした迷いの中にいるなら、具体的で達成可能な目標(資格取得、スキル習得など)を設定してみてください。小さな達成感が、自己効力感を高め、次のステップへの動力になります。
- 転職を「逃げ」ではなく「選択」にする :「今の仕事が嫌だから辞める」というモラトリアム的な決定ではなく、「次はこれをしたいから動く」という主体的な決定へシフトしましょう。この転換が、キャリアの安定性を生み出します。
- 人生設計を中期・長期で考える :5年後、10年後の自分はどうなっていたいか、という中長期的なビジョンを描いてみてください。現在の迷いや決断が、その大きな目標に対してどの位置にあるのかが明確になります。
まとめ
この解説シートでは、心理学用語「モラトリアム」について多角的に解説しました。最後に、重要なポイントを振り返りましょう。
- モラトリアムは自然で必要な段階 :エリクソンが提唱した「アイデンティティを確立するための重要な猶予期間」というポジティブな側面を持ちます。
- 現代では課題となる場合も :一方で、決断を先延ばしにする「モラトリアム人間」というネガティブな側面も持ち、長引く場合は社会的な自立のために意識的な行動が必要となります。
- 段階と立場による対応が重要 :学生にとっては「探索と実験」が中心となり、社会人にとっては「選択と実行」がより重要になります。自分の立場を認識し、適切な対策を講じることが大切です。
モラトリアムは、多くの人が通る道です。この概念を正しく理解することが、あなた自身の現在地を見つめ、将来を考える上での一助となることを願っています。
¹ 出典:下山晴彦「大学生のモラトリアムの下位分類の研究ーアイデンティティの発達との関連でー」



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