はじめに:100年前の知恵が、現代の私たちに語りかけること
「頑張っているのに、なぜか結果が出ない」 「努力すればするほど、心が疲れてしまう」
そんな経験はありませんか?
今から100年以上前、明治から大正へと時代が移り変わる1912年に、一冊の本が生まれました。幸田露伴の『努力論』です。当時も今と同じように、夢を抱いて挑戦する人は多かったものの、成功するのはほんの一握り。多くの人が挫折し、借金を背負って苦しんでいました。
露伴は、そんな失意の底にいる人々に向けて、この本を書きました。単なる精神論ではなく、「どうすれば努力が報われるのか」「どうすれば幸せに生きられるのか」を、論理的に、そして温かく説いた一冊です。
驚くべきことに、露伴の言葉は現代心理学の知見と驚くほど一致しています。この記事では、『努力論』のエッセンスを、心理学の視点も交えながら、わかりやすくお伝えしていきます。
幸田露伴という人:挫折から這い上がった天才
まず、著者である幸田露伴についてお話ししましょう。
露伴は1867年、江戸幕府が終わりを迎える激動の時代に生まれました。もともとは幕府に仕える家柄でしたが、時代の変化によって生活は困窮。東京府第一中学校(現在の日比谷高校)に入学するも、家庭の事情で中退せざるを得ませんでした。
その後も経済的な理由で学校を中退し、結局「手に職をつけよう」と電信技師の道へ。北海道で技師として働いていた18歳の時、運命の一冊に出会います。坪内逍遥の『小説神髄』です。
「人間の感情をありのままに描く文学」に衝撃を受けた露伴は、退屈な日常に耐えきれず、なんと仕事を放棄して北海道から「脱走」。実家に戻って肩身の狭い思いをしながらも、ひたすら執筆に打ち込みました。
その努力は実を結び、処女作『露団々』で文壇デビュー。その後『風流仏』『五重塔』などの名作を次々と発表し、尾崎紅葉と並んで「紅露時代」と呼ばれる文学の黄金期を築きました。晩年には「大露伴」と称され、1937年に第一回文化勲章を受章しています。
二度の中退、脱走、そして成功。露伴自身が、努力と挫折を繰り返しながら這い上がってきた人物だったのです。
努力には「質」がある:二種類の努力
目に見える努力と、目に見えない努力
露伴は、まず私たちに問いかけます。
「がむしゃらに頑張ることが、本当に良い努力なのだろうか?」
彼は、努力には**「直接的努力」と「間接的努力」**の二種類があると説きます。
直接的努力とは、目標に向かって直接行動することです。たとえば、詩人を目指して朝から晩までペンを走らせる。野球が上手くなりたくて、ひたすら素振りをする。目に見えやすく、わかりやすい努力ですね。
一方、間接的努力とは、その土台を作る努力のこと。優れた作品を研究したり、バットの正しい握り方を学んだり、より良い方法を探求したりすること。準備や計画、戦略を立てる冷静な姿勢です。
露伴はこう語ります。
「頑張っても結果が出ないのは、きちんと土台を作る努力を怠っているからなのです」
心理学から見た「間接的努力」の重要性
これは現代心理学でいう**「メタ認知」**の概念と深く結びついています。メタ認知とは、自分の思考プロセスや学習方法を客観的にモニタリングし、より効果的な方略に修正していく高次の認知能力のことです(Flavell, 1979)。つまり、「自分がどう学んでいるかを理解し、その学び方を改善する力」と言えます。
スタンフォード大学の心理学者キャロル・ドゥエック教授の研究によれば、成功する人は単に努力するだけでなく、「やり方」を工夫し続ける人だといいます(Dweck, 2006)。これは露伴のいう間接的努力そのものです。
ただ闇雲に走るのではなく、立ち止まって地図を確認する。そんな賢さが、努力を報われるものに変えていくのです。
一流と二流の努力:苦しい努力は二流?
「努力している」と思わない努力が最強
露伴は、さらに衝撃的なことを言います。
「唇を噛みしめるような努力は、二流です」
え? 歯を食いしばって頑張るのが美徳じゃないの? と思いますよね。
露伴が言う**「一流の努力」**とは、本人が「努力している」とさえ思わない努力のこと。好きで没頭しているうちに、自然とやってしまうような努力です。
「自分は怠惰だと思いながら、それでもついやってしまう」
そんな状態が理想なのだそうです。
フロー理論との共通点
これは心理学者ミハイ・チクセントミハイが提唱した**「フロー状態」**の概念と一致します。フロー状態とは、課題の難易度と自分の能力が釣り合っており、挑戦的かつ達成可能な活動に深く没頭している心理状態のことを指します(Csikszentmihalyi, 1990)。この状態では、時間感覚が消失し、自己意識が薄れ、活動そのものが報酬となります。
研究によれば、フロー状態にある時、人は最も高いパフォーマンスを発揮し、しかも深い幸福感を感じることが実証されています。プロのアスリートや芸術家、科学者など、各分野の一流と呼ばれる人々は、このフロー状態に入る頻度が高いことが分かっています。
では、どうすればそんな理想的な状態を作れるのでしょうか?
露伴は言います。「まず、努力を辛くなくすための工夫をすることです」
つまり、一流の努力をするためには、まず間接的努力が必要なのです。やる気や根性に頼るのではなく、仕組みで解決する。現代の生産性向上のテクニックとも通じる、とても合理的な考え方ですね。
自分を変える二つの道:他力と自力
師を持つことの力:他力本願は悪くない
新しい自分になりたい。成長したい。そう思った時、あなたはどうしますか?
露伴は、自己変革には**「他力」と「自力」**の二つの道があると説きます。
他力とは、尊敬できる人に身を寄せ、その人から学ぶこと。師匠につくことです。
「その人の一部になったかのように働き、心を託す」
そうすることで、我流で進むよりも速やかに上達できると露伴は言います。これは茶道や武道の「守破離」の考え方に通じますね。
ただし条件があります。それは**「昨日までの自分を一切捨てる覚悟」**を持つこと。自分の感情や習慣という「雑草」を取り去り、謙虚に学ぶ姿勢が必要です。
心理学が証明する「モデリング」の効果
心理学では、これを**「社会的学習理論」や「モデリング」**と呼びます。心理学者アルバート・バンデューラの研究によれば、人は他者の行動を観察し模倣することで、自ら試行錯誤を繰り返すことなく効率的に学習できることが実証されています(Bandura, 1977)。このプロセスは、「観察学習」とも呼ばれ、(1)注意、(2)保持、(3)運動再生、(4)動機づけの4つの段階を経て成立します。
また、**「近接発達領域(Zone of Proximal Development: ZPD)」**という概念も重要です。ロシアの心理学者レフ・ヴィゴツキーが提唱したこの理論は、「一人ではできないが、より知識や技能のある他者の援助があればできる」という発達の領域を指します(Vygotsky, 1978)。この領域で学ぶことが最も効果的な成長を促すのです。まさに師のもとで学ぶことの価値を科学的に裏付けています。
自力の道:困難だが尊い挑戦
一方、自力とは、自分自身の力だけで変わろうとすること。
露伴は正直に言います。
「自力での自己革新は、ほとんど不可能と言っていいでしょう」
なぜなら、「良くない自分」を「良くない自分のまま」の本人が変えようとする矛盾を抱えているから。これは哲学的なジレンマです。
それでも露伴は、自力で変わろうとすることを「実に高尚で偉大なこと」だと評価します。結果が出なかったとしても、その挑戦自体に価値があるのです。
ただ、大多数の人には他力を勧めます。効率的で、確実だからです。
感情と意志のコントロール
「好き」だけでは大きなことは成し遂げられない
「好きなことなら頑張れる」
確かにそうですね。でも露伴は言います。
「どれほど好きなことでも、苦痛に感じる瞬間が必ず訪れます」
ナポレオンも、コペルニクスも、好きという感情だけで偉業を成したわけではありません。その瞬間に、自分の感情に打ち勝ち、目標に集中できるかどうか。それが真の努力なのです。
「気」をコントロールする仕組みづくり
露伴は、努力を妨げる二つの「気」を指摘します。
- 散る気(ちるき):集中しようとしても、スマホや他の誘惑に意識が向いてしまう状態
- 凝る気(こるき):成果が出ていないのに「今までやってきたから」と固執し、無益なことを続けてしまう状態
これらを根性で抑え込むのではなく、仕組みでコントロールすることが大切だと露伴は言います。
たとえば、
- 「散る気」を防ぐために、カフェやコワーキングスペースで作業する
- 「凝る気」を避けるために、「半年で成果が出なければやめる」というルールを設ける
やる気が出なくても実行できる環境を作る。これぞ賢明な努力です。
現代心理学の「意志力」研究との一致
心理学者ロイ・バウマイスターの自我消耗理論(Ego Depletion Theory)によれば、意志力は筋肉のように使用すると一時的に消耗する限られた資源であることが示されています(Baumeister et al., 1998)。一日中自己制御を繰り返すと、脳内のグルコース(ブドウ糖)が減少し、意志力が低下することが実験的に確認されています。
だからこそ、意志力に頼らない「環境設計」や「実装意図(implementation intention)」が重要なのです。実装意図とは、「もしXならばYをする」という具体的な行動計画を事前に立てておくことで、意志力を使わずに自動的に望ましい行動が起こる仕組みを作ることです(Gollwitzer, 1999)。これは現代の行動経済学や習慣化の研究とも完全に一致する考え方ですね。
才能と運命についての新しい視点
才能とは「努力の相続」である
「あの人は才能があるから」
そう言って諦めたことはありませんか?
露伴は、才能について独自の見解を示します。
「天才の才能はどこから来たのか。それは親、祖父母といった先代の努力の積み重ねが、その人の血液の中に宿ったものです」
つまり、天才とは**「不断の努力の相続者」**なのです。
この考えによれば、あなたの努力は無駄になりません。たとえ今生で大きな成果が出なくても、その努力は子孫に受け継がれていくのです。
エピジェネティクスという科学
興味深いことに、現代の科学は露伴の洞察を裏付けています。エピジェネティクスという分野の研究によれば、環境や経験によって遺伝子の発現が変化し、それが次世代に引き継がれる可能性があることが分かってきました。
親の努力や経験が、文字通り子どもに影響を与える。科学が、100年前の露伴の直観に追いついてきたのです。
幸運を引き寄せる「自責の念」
露伴は言います。
「幸福のロープを引く人の手は、いつも擦り切れて血が流れています。不幸のロープを引く人の手は、柔らかくて綺麗なままです」
幸運な人は、どんな時も他人や運命のせいにしません。「自分の手の皮が薄く、腕の力が足りなかった」と、すべてを自分の責任として捉えます。
この**「自責」の姿勢**こそが、成長の鍵であり、他人からの信頼を得る方法なのです。
統制の所在(ローカス・オブ・コントロール)
心理学では、これを**「統制の所在(Locus of Control)」における「内的統制型」**と呼びます。心理学者ジュリアン・ロッターが提唱したこの概念は、人生の出来事の原因を自分の行動や能力に帰属させる傾向(内的統制)と、運や他者、環境などの外的要因に帰属させる傾向(外的統制)を区別します(Rotter, 1966)。
研究によれば、内的統制型の人は、外的統制型の人と比較して、学業成績が高く、キャリアでの成功率が高く、心身の健康状態も良好であることが多数の研究で示されています(Ng et al., 2006)。物事の原因を自分の内側に求めることで、改善のための行動を起こしやすくなるのです。
ただし注意が必要なのは、これは「すべてあなたのせい」という責め立てではないということ。むしろ「あなたには変える力がある」というエンパワーメント(empowerment: 力を与えること)の思想なのです。
幸福を積む三つの秘訣
努力が必ずしも報われるとは限らない世の中で、それでも幸せに生きるにはどうすればいいのか。
露伴は**「幸福三説」**という、具体的な人生戦略を提案します。
1. 積福(せきふく):幸福を使い切らない
幸運が訪れた時、調子に乗ってそれを使い果たしてはいけません。自分を抑制し、常に余力を残しておく。福は福があるところに集まるからです。
徳川家康は、この「積福」の達人でした。倹約によって莫大な財産を子孫に残し、江戸幕府約260年の礎を築いたのです。
心理学的視点: これは**「遅延報酬」**の概念に通じます。スタンフォード大学の有名な「マシュマロ実験」では、目の前の報酬を我慢できる子どもは、将来的に高い成功を収めることが示されました。
2. 分福(ぶんぷく):幸福を分かち合う
自分が得た幸福を、独り占めせず他者と分かち合う。そうすることで、巡り巡って自分にもまた福が返ってきます。
豊臣秀吉は、手柄を立てた家臣に気前よく恩賞を与えました。家臣たちは命がけで働き、それが天下統一を早める一因となったのです。
心理学的視点: **「向社会的行動」の研究によれば、他者を助ける行為は、助けられた人だけでなく、助けた本人の幸福感も高めることが分かっています。また、「返報性の原理」**により、与えた善意は形を変えて自分に返ってくる可能性が高まります。
3. 植福(しょくふく):未来のために種を蒔く
現在の自分のエネルギー、時間、知識を使って、未来の社会のために幸福を生み出す。
私たちが享受している文明の豊かさは、すべて先人たちの「植福」の賜物です。私たちも100年後、200年後の世界のために、責任を持ってバトンを繋いでいくべきなのです。
心理学的視点: **「世代継承性」**という概念があります。心理学者エリク・エリクソンは、人生の後半において、次世代に何かを残したいという欲求が生まれると説きました。この欲求を満たすことが、晩年の幸福感につながるのです。
また、**「意味ある人生」**の研究によれば、自分より大きな何かに貢献している実感が、深い満足感をもたらすことが示されています。
おわりに:100年の時を超えて響く言葉
幸田露伴の『努力論』は、単なる精神論ではありません。
がむしゃらな根性論を否定し、冷静な自己分析と戦略に基づいた合理的な努力を説く。他者とのつながり、未来への責任を忘れない。そんな、時代を超えた普遍的な知恵が詰まっています。
そして驚くべきことに、その多くが現代心理学の知見と一致しているのです。
頑張っているのに結果が出ない時、心が折れそうな時。
露伴の言葉を思い出してください。
「二種類の努力を使い分けていますか?」 「努力を辛くなくする工夫をしていますか?」 「良き師に学んでいますか?」 「あなたの努力は、未来に繋がっていますか?」
努力は、やり方次第で報われるものに変わります。
この記事が、あなたの努力がより実り多いものになる一助となれば幸いです。
参考文献
- 幸田露伴『努力論』
- キャロル・ドゥエック『マインドセット』
- ミハイ・チクセントミハイ『フロー体験』
- アルバート・バンデューラ『社会的学習理論』


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